法と教育学会参加記@明治大学
9月5日に、明治大学のリバティタワーにて行われた法と教育学会に参加してきました。この学会、今年が1回目でした。以下、その感想を書きます。
今回僕が聞いたのは、広島の高校の先生による、労働法の構造を学ぶ授業実践報告と、教育実習の時にお世話になった先生が、うちの大学で講義「法教育」をし、その際に作った授業紹介と、実際に行った時の様子を語ったものの2本。それと、午後のシンポジウムです。
どの報告も力が入ったもので、特に社会科教育における法教育として、「法的な見方考え方」をいかに育てていくのか、に焦点を当てた報告が多く、自分としてもとても参考になるものばかりでした。
ただ反面、今日の発表を聞いて、現場に出て、工業高校の生徒と接している上に、あくまで地歴採用で法律にはまったく疎く、学校でも担任すら持っていない状態の自分だから語れるものってある気がするので、それを語って今日の感想としたいと思います。
一点目は、聞いていて頭がパンクしそうだった、という雑感です。というのは、法教育(公民教育)特有の、公正・効率・正義・幸福・・・などなどの、抽象的で定義が難しく明確な答えのない言葉のオンパレード。
これについては、自分の勉強不足があるっていうのも否めないのですが、この抽象的な言葉を、ある程度明確に定義づけて広めないと、法教育=ルール教育、価値教育で終わってしまう危険性があるような気がしました。
二点目は、これと関連するのですが、やっぱり何だかんだ言って、学習指導要領に入ってきていることや、法学の専門家の方、あるいは社会科教育でも公民教育の専門家が多かったからか、僕には「法律は細かく知らなくてもいいよ、専門外でもいいんだよ、大事なのはプロセスだし、方法論なんだから」という風潮が根強くあった気がします。なんというか、エリートによる上から目線というか。
これについては、シンポジウムの質問の時に、内容のミニマムエッセンシャル(最低基準)を、と言っていたこととつながるのかな、と思いました。
法教育は扱っているものが「法律」でありながらも、「法解釈」の側面、もっといえば、「異なる正義の調整」(今はやりのハーバード白熱授業的な感じ)がメインとなっていることから、どうしても内容ではなく、議論が方法に移っていた気がしました。
そして三点目、今日の学会の中で一番印象に残っている言葉を述べたいと思います。それは、都立高校で法教育を推進している渥美先生が、質疑の際に述べた言葉
「法教育の授業で、100%の正解はないんだ、と教えると、ある生徒から、『100%正しい答えがないなんて、先生の授業を受けるのが怖くなりました』という感想があった」
という言葉でした。
この言葉が今の子どもたち、そして、教師1年目のなりたてで、法教育については門外漢のいち社会科教師である自分にもあてはまる言葉だなと感じました。
もちろん、サンデル教授のハーバード白熱授業みたいに、たったひとつの答えはないが、自分なりの答え(=正義)はあるし、それをプロセス(=議論)によって構築していくことには、十分意味があると思います。8月に受けた都の研修で、地理の先生もそんな授業を目指していましたし、十分可能なんだと思います。
でも、それはサンデル教授、あるいは法律の専門家、公民教育の専門家だからこそ、オープンエンドの議論を白熱させることができるのであって、自分みたいな人間がこういう授業をやるのには一瞥の怖さを感じています。
自分の馬鹿さ加減を露出しちゃうんじゃないか・・・って。
頑張って教材研究しないといけないから、負担が大きくなるんじゃないか・・・って。
なんというか、やっぱり何だかんだいって、授業にはオチがないといけないよね、っていう感じ。オチがない授業をすることに対する怖さ、そういうのが自分の中にあります。
こういうオープンエンドを行うことを嫌っている教師がいる限り、いくら法的な見方考え方、といっても議論型の学習は進んでいかないような気がします。
まあ、これは自分の教師としての能力のなさでしょうし、これについては、今日の報告でもありましたが、「とりあえずやってみる」という姿勢も大事だと思いますので、やっていきながらあれこれ考えていきたいと思います。
また、学校の実情を考慮すれば、地理歴史との連携(=社会認識の基礎科目と法的な見方考え方との関係)、価値教育にならないルール教育の在り方(特に最近うちの学校は、ルール違反がひどいもので…)についてはもっと知りたいところでした(ルールについては根本先生という弁護士の方が指導案を示していたので、使おうと思いますが)。
久々に「勉強したなあ」「学問に触れたなあ」という感想を持った一日でした。それと・・・
明治大学の施設は半端ない
そう感じた一日でした。